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エゴイストの香りの男は、あれからずっと「アクア」で飲んでいた。
グラスからはみ出しそうに大きな氷の塊が、青い照明にキラキラ輝いている。
本来、彼ほどの男なら、もっと高い店で、高い女をはべらせて飲むのが普通だろう。
しかし、彼はあまりそういうのが好きでなかった。
(彼にとっては)安い店で、一人で静かに飲むのが好きなのだ。
それに、彼はこの店の雰囲気を気に入っていて、ふらっと一人で訪れる事がしばしばあった。
淡いブルーの照明・・・
透き通ったブルーのコースター・・・
壁に嵌め込まれた水槽の中で、青くきらめく熱帯魚・・・
この店はいい・・・
あの頃と少しも変わらない。
男は、さっき出合った「汀」という青年の事を考えていた。
汀・・・
そう・・・あの時も・・・
汀と呼ばれていた・・・
男は、以前にあの汀という青年に会ったことがあった。
その時の事は、今でもはっきり覚えている。
あれは、三年程前の事だった・・・
男が初めてアクアに来た時のことだ。
地下へ下る狭い階段を降り、「AQUA」と小さく書かれた扉に手を伸ばそうとした時だった。
突然その扉が開き、少女のような人影が飛び出してきて、男に激しくぶつかっってきた。
壁のように動じず、身じろぎもしない男は、
フラッとよろめき、倒れそうになる人影を、咄嗟に抱き止めた。
その抱いた感触から、それが少女ではなく、若い男性だと気付く。
「す・・・すいません・・・」
いったい何があったというのだろう。
慌てて謝るその青年の大きな瞳には、涙がいっぱいあふれていた。
「大丈夫か?」
柄にも無く、出来るだけ優しい声で、声をかける男。
「は・・・はい・・・」
怒られると思ったのに、思いがけず自分を気遣う声をかけられ、
その潤んだ瞳を大きく見開いて、男と視線を合わせる青年。
濡れそぼった、長い睫毛が痛々しい。
しかし、その瞳には、男を恐れるような色は浮かんではいない。
それを見て、安堵する男。
その時、音を立てて再び激しく扉が開いたかと思ったら、別の青年が飛び出して来た。
「汀っ! ちょっと待てっ!」
背中から叩き付けられる声に、汀と呼ばれた青年は震えながら身をすくめる。
男は、無意識のうちに彼を守ろうと、両腕の中にしっかり抱き込む。
「汀っ!・・・」
後から飛び出してきた青年は、男の威圧するような視線に、思わず一歩退いた。
「汀っ!・・・別れるってどういうことだっ!」
男の腕の中で、細い肩がビクッと震える。
「何で急に別れるなんて言うんだっ!・・・その男は何なんだっ! 答えろっ!・・・ 汀っっ!」
汀という青年が、絞り出すように、苦しそうな返事を吐き出す。
「ほっといてっ!・・・もう・・・成久には・・・関係ない・・・」
暫くの間、沈黙が続く・・・
成久と呼ばれた青年は、男の刺すような視線に耐え切れず、顔をそむけて叫ぶ。
「くそぉーっ!! もう次の男に乗り換えたのかっ?! そんなヤツだとは思わなかったぞっ! 汀っ!!
お前みたいな尻の軽いヤツなんかっ・・・こっちから願い下げだっっ! 」
捨てぜりふを残し、成久という青年は、階段を駆け上がって行った。
その足音が聞こえなくなると、腕の中の青年は哀しそうにすすり泣き初める。
「あれで・・・よかったのか?」
声をかける男・・・
言葉にならず、コクンと小さくうなずくと、
汀という青年は、声を殺すように泣いた。
哀しい声だった。
男の胸にすがり、鳴咽を洩らす青年をそっと抱きしめる。
暫くの間、そこで時間が止まったようにそのままでいた二人。
「すいません・・・ありがとうございました・・・」
やがて、小さな声でそう言うと、青年は男の腕の中から離れていった。
深くうつむいたまま、男の顔を再び見る事もなく、とぼとぼと階段を上っていく。
その後ろ姿が、あまりに哀しそうで、何か声をかけようとするが、良い言葉がみつからない。
そして、汀という青年は、夜の街にまぎれて、消えていった。
ずいぶんグラスの氷が、小さくなっている。
思ったより長く、過去の記憶に浸っていたらしい。
あれから暫くは、あの汀という青年の事が、気になってしかたがなかった。
この店に、度々来るようになったのも、元を正せばその為だ。
最も、何回か来るうちに、この店の雰囲気がすっかり気に入ってしまったのだが・・・
しかし、今日、久しぶりに会ったあの青年は、男の事を覚えていないようだった。
帰り際には、何かを感じ取っていたようだったが・・・
無理も無い・・・
あれだけ動揺していたのだから・・・
あれだけ密着していたにもかかわらず、顔を見たのは一瞬だった。
三年も経って、覚えていなくてもおかしくはない。
それに、覚えていたとしても・・・それが何だというのだ?
自分には、関係の無い事だ・・・
男は、時折グラスの中の氷をカラーンと回して、
何か考えながら、溶けてゆく塊を見つめている。
こんな時、マスターは何も話し掛けたりはしない。
マスター自身も、やはり何も語らず、黙ってグラスを磨いている。
この男が、そうされるのを好むと、知っているからだ。
男は、ふと時計に目をやり、グラスを置く。
「ちょっと失礼・・・」
マスターに断って席を立った男は、人影のない出入り口あたりに向かう。
そして、懐から電源が切られたままの携帯電話を取り出した。
彼は、薄暗い壁に背を向け、どこかに電話をかけている。
「俺だ・・・」
『組長! 何処に居るんですか? 困りますよ、護衛も付けずに一人で出られては・・・
組長は良くても、私が兄貴達に怒られるんですから。もしも組長に何かあったりしたら・・・』
「車を回してくれ・・・」
『もうお帰りになるんですね? すぐ向かいます。』
男は、居場所を告げると電話を切った。
席に戻ると、煙草に火を付け、残りの酒に手を伸ばす。
「マスター・・・チェック・・・」
「はい・・・」
男は、いつも現金払いだ。
誰に命を狙われるか、わからない稼業だ。
ツケを残したまま死ぬわけにもいかない。
これも、この男のポリシーなのだろう。
「釣りは、いい・・・」
「ありがとうございます。」
男はいつも勘定より多めに払っていく。
それは、彼なりの感謝の気持ちなのだ。
全てを察しているマスターは、男の顔を潰すような事は言わずに、
いつも黙って受け取るようにしていた。
マスターには、この男がどんな世界の人間か、おおよその見当はついていた。
それでも、店を気に入ってくれている客なら、どんな客でも拒まない。
特別扱いはしないが、拒否もしない。
気持ち良くくつろいでもらえたらなおいい。
男の方にしても、そんなマスターの人柄が気に入っているからこそ、アクアに足を運ぶのだ。
地上にでる階段を登りきると、雨でも降っていたのか、道路が濡れているのに気が付く。
ちょうどそこへ黒塗りの高級外車が走ってきて目の前に止まった。
助手席から出て来た者が、男に浅く頭を下げると、急いで後部座席のドアを開けて待つ。
「お疲れ様です。」
黙って男が乗り込むと、その護衛と思われる者がドアを閉め、慌ただしく助手席に滑り込んだ。
「事務所に向かいますか? それとも御自宅の方へ・・・」
「自宅の方へやってくれ・・・」
「はい。」
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