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加賀見のマンションの最上階・・・
汀は、窓辺にたたずんで、暮れてゆく夕日をぼんやりと眺めていた。
下界を見下ろせば、せわしなく動き回る小さな人や車が見える。
世間から隔離された、四角い空間・・・
時間の流れさえも、感覚とかけ離れ、
一瞬、現実の世界の事が、全部幻だったかのような錯覚を覚えることがある。
成久に乱暴されてから、すでに10日が過ぎようとしていた。
すでに身体の痛みは、完全に去り、顔の痣もほぼ消えていた。
しかし、心の痛みが10日で消えるわけも無く、今夜もきっと眠れぬ夜を過ごすのだろう。
今更ながら、汀は思う。
なぜあの時、僕は感じてしまったのだろう?
心では、あんなに嫌がっていたのに・・・
あれほど痛い思いをして抵抗したというのに・・・
心まで犯されてしまったような屈辱感を感じる。
自分の事が、信用できない・・・
それは苦しい事だった。
いったい何を信じればいいというのだ?
一つだけある・・・
信用出来る事が・・・
和志・・・
あの人の言葉だけが信用できる・・・
和志・・・
会いたい・・・
せめて声だけでも聞きたい・・・
でも・・・もうそれさえも叶わぬ願いだ。
あの人は、僕の最後のメールをどんな想いで読んだだろう?
汀は、無意識に携帯を手に取る。
何か返事のメールが入っているに違いない。
きっと、あの人の事だ。
こんな事になっても、優しい内容に違いない。
せめて・・・その文字列だけを・・・
心の支えにしても許されるのではないだろうか?
汀は、逆らい難い誘惑にかられる。
久しぶりに電源を入れ、しばらくは青白く輝く液晶を見つめている。
バッテリーが残り少ない。
軽いめまいを感じるような、緊張感・・・
返事のメールは、来ているだろうか?
優しく包んでくれるような内容だろうか?
突然・・・
予想外の出来事に、思わず携帯を落としそうになる。
しんとした、明かりもつけない室内に、着信音が鳴り響く。
和志が入れてくれた、着信メロディー・・・
反射的に通話ボタンを押してしまう汀。
あ・・・
『汀っ・・・そこに居るのか?・・・ああ・・・やっと繋がった・・・』
愛しい声が耳から流れ込んでくる。
和志・・・
声にならない。
『汀っ・・・何処にいるんだ?・・・心配したんだぞ・・・』
涙が溢れ何も答えられない汀。
『汀・・・返事をしてくれ・・・何も聞かないから・・・
何があったとしても、もういい・・・頼むから俺の所へ帰って来ておくれ・・・』
和志も泣いているのか、声を詰まらせながら必死に訴えている。
ああ・・・やっぱりこの人しかいない・・・
僕の悪いところも含め、全てを受け止めてくれるだろう・・・
汀は、声をあげて泣いた。
「・・・和志・・・会いたい・・・」
やっとの思いでそれだけの言葉をつむぎ出す。
『俺も会いたいよ、汀・・・まだ仕事場だけど、いつもの電車で帰るから・・・だから・・・何も言わず戻っておいで・・・』
「・・・うん・・・」
和志に会える・・・
電話を切った後・・・願いが叶う嬉しさと共に、強い不安感に襲われる汀。
再び和志の胸に飛び込んでもいいのだろうか?
客観的に自分の行動を見詰めてみると、何て都合のいい、自分勝手な奴なんだろうと思う。
和志を利用するだけ利用したのに、いともあっさりと裏切り、
自分が辛くなると、また優しくしてもらおうなんて考えている。
僕なんて、和志には相応しくないのかもしれない・・・
でも・・・
もう過去の感情に惑わされる事はない。
自分の気持ちは、はっきりと分かっている。
全てを話そう・・・和志に・・・
もし・・・
それでも僕を受け入れてくれるのなら・・・
きっと・・・
きっと・・・
生まれ変われる・・・
窓の外はすっかりと暗くなり、明かりを点けてないこの部屋にも闇が広がってきている。
しかし、汀の心の闇には、一筋の光が射し込んだような希望が生まれていた。
汀は、コートを羽織ると、財布と携帯をポケットに入れた。
もうこの部屋に戻って来る事も無い・・・
たった10日居ただけなのに、随分長く居たような気がする。
だけど・・・
ここを出て行くまえに、どうしてもしなければいけない事がある。
加賀見さん・・・
見ず知らずの汀を、10日にわたって、何も聞かないで面倒を見てくれた人。
きちんと顔を合わせて、お礼を言わなければならない。
言葉だけでは、足りないのかもしれないが、
今出来ることは誠心誠意、感謝の気持ちを言葉にあらわす事だけだ。
部屋を出た汀は、少し緊張した面持ちで長い廊下を歩き、リビングを覗く。
テニスでも出来るのではないか、と思えるほどの広さ。
その一角のカウンターバーには、すぐにでも店が開けるほどの酒類がそろい、
よく磨かれたグラスが、いつでも使える状態で並んでいる。
これならAQUAまで、わざわざ行かなくてもいいのに・・・
そんな事を考えつつ、目で加賀見を探す汀。
居た・・・
反対側の大きな絨毯が敷き詰められた一角に、加賀見は居た。
汀には気付かない様子で、大きなソファに身を沈め、誰かと電話で話しをしていた。
誰との電話なのか・・・そんな事は汀にわかる訳も無い。
しかし、かすれたように低いが、それでいて良く通る加賀見の声だけは、はっきりと聞こえていた。
「ああ・・・まだ見ていない。今、藤堂から報告書を受け取ったところだ。」
加賀見の側には、藤堂が立っていたが、二人とも汀には気付いていないようだ。
何か大事な話しをしているようで、汀は声をかけられずじっと立っていた。
「そうだ・・・引き続き調査を継続してくれ・・・
何か新しい事が分かったら直ぐに報告しろ・・・わかったな・・・」
突然、汀の気配を感じた藤堂が、振り向きざまに叫ぶ。
「お前、何を立ち聞きしているんだっ!!」
組長を守るのが仕事なだけに、藤堂も、加賀見に負けず劣らず、強く逞しい体格をしていた。
その藤堂が、つかつかと近づいて、汀の肩を強い力で鷲づかみにしたのだ。
その表情は、恐く・・・険しいものだった。
「い・・・痛い・・・」
汀は、硬直する。
忌わしい記憶が、蘇りそうになる。
「嫌だ・・・離して・・・触らないで・・・」
藤堂の手を振り払おうとする汀。
だが、力の差は圧倒的に藤堂の方が強い。
「お前、何様のつもりだ!!」
汚いものでも振り払うようななそぶりをされて、藤堂は頭に血が登る。
彼は、汀の事を快くは思ってはいなかった。
いや・・・この汀という男の事を、なぜ加賀見がこうも気にするのか、理解出来なかったのだ。
加賀見に問いただす事など、出来る訳も無く、藤堂は心の中にもやもやを抱えていた。
「いったいお前は何者なんだっ? 何処の回し者だ? ああっ?」
藤堂は、汀の襟首を掴み、締め上げる。
「藤堂っ!!」
加賀見の、怒気を含んだ低い声が響く。
藤堂は、ビクッと動きを止め、慌てて汀からその手を離した。
「く・・・組長・・・こいつが盗み聞きを・・・」
藤堂の言葉を遮るように、加賀見は言う。
「藤堂・・・言ったはずだ・・・その人は俺の客人だと・・・何度も言わせるな・・・」
有無を言わせぬ低い声・・・
その声には、冷たい怒りが込められていた。
もし、これが藤堂でなければ・・・仮に他の舎弟だったなら・・・
きっと只ではすまなかっただろう。
加賀見は、配下の大勢の組員の中でも、藤堂の事を一番信用していた。
まだ若く、組織内での地位も高くなかったが、裏表無く自分に尽くす姿勢が気に入っていた。
だから、加賀見は許すのだ。
そう・・・
藤堂だからこそ・・・
藤堂も馬鹿ではない。
加賀見の声に「次は無いぞ」とでも言うような怒りを感じ取り、自分の中の全ての疑問を打ち消すのだ。
組長が黒だと言えば・・・
どんなに白いモノでも黒になる・・・
仁義の世界に生きる藤堂にとって・・・それは当然の事だった。
「大丈夫か?・・・すまなかったな・・・」
汀に対して加賀見は言った・・・
その声色は、一瞬にして優しさを含んだモノに変えられていた。
「な・・・何も組長が謝らなくても・・・自分が謝りますっ!・・・申し訳ありませんでしたっ!!」
藤堂は、腹の中の数々の疑問を押し殺し、ピッと伸ばした姿勢を、直角になるまで頭を下げた。
「あ・・・いいですっ・・・黙って入って来た僕が悪いんですっ・・・」
汀も慌てて頭を下げる。
目の前で初めて加賀見が見せた・・・一瞬の怒り・・・
そして・・・それに対する藤堂の反応・・・
改めて住む世界の違いを思い知る汀だった。
クリーニングされていた衣服を身に着け、身支度を整えた汀を見て、加賀見が尋ねる。
「出てゆくか・・・」
「はい・・・あ・・・あの・・・何と御礼を言ったらいいのか・・・本当にお世話になりました・・・」
再び頭を下げる汀を見て、加賀見はやや間を置いてから口を開く。
「そうか・・・まあ、こちらに座りなさい。お茶でも入れよう・・・」
「え?・・・あ・・・はいっ・・・」
思わずそう答えてしまった汀。
加賀見は優しく、静かに言ったのに、何処か逆らい難い力があったのだ。
「藤堂・・・私の『客人』に何か飲み物を・・・」
加賀見は、汀を引き留めたかった。
なぜそんな事を思うのか、自分自身でも訳が分からない。
仮に・・・引き留めたとして、それが何だというのだ・・・
全く意味が無い事だ。
たまたま・・・家の前にゴミと一緒に落ちていた・・・
ただそれだけの事だ。
それ以上でも・・・それ以下でもない。
しかし・・・
何事にも動じない精神・・・
冷徹とさえ言われるほどの加賀見。
そんな自分の中に、己でさえも説明の出来ぬ感情があるとは・・・
加賀見は、自分自身に対して、軽い違和感を感じずにはいられなかった。
やがて藤堂がコーヒーの用意をしてやって来た。
人数分のカップとソーサーを並べ、次々にコーヒーを注いでゆく。
「どうぞ・・・」
「どうも・・・いただきます。」
一口飲むと・・・
湯気とともに、香り高い香ばしさが汀の鼻をくすぐる。
「あ・・・これ・・・美味しいです・・・」
お世辞ではなく、本当にそう思った汀。
「そ・・・そうか?・・・」
褒められて嬉しいくせに、照れ隠しに横を向いてしまう藤堂。
「それに・・・これってマイセンですよね・・・」
優雅で、微細な絵柄が施されたカップ・・・
その底面には、二本の青い剣が交差した刻印があった。
西洋磁器の中でも、超のつくほどの高級ブランド・・・
汀でさえも知っている「マイセン」のカップだった。
文字道理、珍しいモノでも見るような目をしている汀に、藤堂が得意げに説明を始める。
「マイセンっていってもピンからキリまであるんだぜ・・・
最も・・・このコーヒーセットは、マイセンの中でもアラビアンナイトのシリーズだから、
まあ、結構な値打ちモンだけどな・・・」
「な・・・何か・・・緊張してきちゃいました・・・」
もし・・・落として割ったりしたら・・・
外国に売り飛ばされちゃうかも・・・
神妙な顔付きに変わった汀を見て、藤堂は楽しそうにフフッと笑う。
「それより、その絨毯の上に零すなよ・・・そっちの方が何倍も高く付くぜ・・・」
そう藤堂に言われて足元を見ると、巨大なペルシャ絨毯が敷かれているのに気付く。
確かに・・・
ペルシャ絨毯は、モノによっては常識を外れた、とんでもない高値で取引されるという。
「そ・・・そんなに・・・高いモノなんですか?・・・」
「その絨毯一枚で、家が一軒買えるんじゃないかな・・・」
「・・・っ!?」
びっくりして声も出ない・・・
藤堂は、そんな汀を見て、自分のモノでもないのに、得意そうにニヤける。
「藤堂っ!・・・」
低く、抑えた加賀見の声色に、ビクッと肩をすくめる藤堂。
くだらない事をペラペラ喋るな・・・
加賀見の強い視線は、確かに藤堂にそう言っていた。
「すいません・・・組長・・・」
あらためて広大なリビングを見回してみると、いかにも高価そうなアンティークが、
無造作に何個も並べられている。
大理石の壁の、あちこちに掛けられた絵画なども、何処かで見た事があるようなモノが幾つかあった。
汀が知っているぐらいだから、もし本物ならとんでもない値段が付くのだろう。
「あ・・・あの・・・美術品が好きなんですね・・・」
「いいや・・・興味は無い・・・」
汀の想像を、あっさりと否定する加賀見。
実際、税金対策で購入したり、借金の担保として手に入れたモノばかりで、
別に加賀見が欲しがった訳では無かったのだ。
どうも会話が噛み合わず、汀は間が持たずにコーヒーを口に運ぶ。
すると、ペルシャ絨毯の事を思い出し、緊張に手が震え出す。
それを見た加賀見が、口を開く。
「体調は・・・本当に良くなったのかね?」
その声に、優しさが含まれているのを汀は敏感に感じ取る。
「はい・・・あ・・・あの・・・おかげ様で、もう、大丈夫です・・・本当にありがとうございました。」
「君さえ良ければ・・・もっとゆっくりして行ってもいいんだよ?・・・」
「いいえ・・・これ以上、御迷惑を掛けられませんから・・・
それに・・・ここでは・・・自分自身を見つめ直す時間をいただきました。」
汀は、カップを慎重にテーブルに置くと、加賀見の顔をまっすぐに見て続ける。
「おかげで・・・自分の進むべき方向が、見えたような気がします・・・」
加賀見は、それ以上何も聞かなかった。
言いたく無い事は黙っていればいい・・・
出て行きたい者は、好きにすればいい・・・
去る者は追わず・・・だ・・・
「落ち着いたら、あらためて御礼に伺います・・・どうもありがとうございました・・・」
汀は、加賀見に深々と頭を下げると、立ち上がる。
「藤堂・・・家まで送ってあげなさい・・・」
「はい。」
返事と同時に、藤堂も立ち上がる。
「あ・・・あの・・・大丈夫ですから・・・そこまでしていただいては・・・」
慌てて言う汀を制するように、加賀見の少しかすれた声が響く。
「いや・・・もう外も暗い・・・ここに居るあいだは俺の言う事に従ってもらう・・・絶対だ・・・」
「・・・・」
そこまで言われると、汀はもう何も言えない。
「わかったな・・・藤堂・・・頼むぞ。」
「はい。」
藤堂と汀・・・
妙な組み合わせの二人は、程なく加賀見のマンションを後にしたのだった。
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